本日の一曲No728:おくりびと~Departures

9周年記念・・・。

三日坊主の私がなんと10年目に突入です。
とは言っても、ここ数年はほとんど更新が出来てません。
子供たちが成長し、話題が少なくなったことが大きいかもしれません。
逆に言うと、自分や夫婦の間には大した話もないというか、
見つける気が薄いというか。

ここ一年の出来事と言えば、
去年の9月に長男が結婚式を挙げました。
そして、来年の1月には赤ちゃんが生まれる予定です。
しかし、ひ孫の誕生を待たずして今年の9月、主人の父が永眠しました。
命の輪廻とでも言うのでしょうか。
まるで生まれ変わりのようなタイミングで、〇〇家の名を継ぐ唯一の子が誕生するわけです。
養子としてこの家に入り、家を守ってきた義父にとっては、
待ちに待った子ではなかったでしょうか。
口には出す人ではありませんでしたが、
楽しみにというか、ほっとされた所があったのかもしれません。
一昔前なら、名前の一字にお父さんの字を使ってと言うところでしょう。
息子たち夫婦にはそんな要望は出しませんが、
その子のことを思うたびに、義父のことを思い出すことになる気がします。
遺していくものは人それぞれです。
生きている間から、形あるものを作っていく人もいれば、
死んでのち、人の気持ちの中に形無きものを残していく人もいます。
その人が生きていた証、生きてきた意味。
望むと望まぬにかかわらず、周りの人には何かしら繋がっていくものです。
人とはそういう生き物なのだと、つくづく思います。
人と人との関りが薄くなっている時代だと言われますが、
根本的には何も変わってはいないのだと思います。
ただ、ストレートにそういう事を表さない時代であったり、
地域が増えているのは事実でしょう。
最近驚いたのは、義父の葬儀のこと。
ど田舎で大爺さんがなくなった時は、字の人が家に来ていろいろと面倒を見てくれました。
今ではセレモニーホールで通夜式も葬儀も行われます。
それどころか、ひじも配らなければ、わからない内に葬儀まで済ませてしまおうという風潮。
同じ字内で最近あった葬儀では、
お参りに行ったら、家族葬だからとお参りすら断られたとか。
いくら何でも、お参りすら断るのはいかがかと、
義父の葬儀に関しては、香典は受け取らないけれど、
お参りに来てくださった方には、参列していただくという形でした。
やたらと情報を広めるのはどうかと思いますが、
葬儀というのは、その人が生きてきた道が現れるものだと思うと、
残った者の勝手で余りにも縮小して行うのもどうかと考えてしまいました。
かく言う私は、本当に家族だけで良いし、
墓も作る気はないので、散骨してもらおうと思っています。
母も死んでも誰にも知らせないで、こっそり(ひっそり?)やってくれと言っています。
ですが、どこまでを身内、家族と思うかは本人次第だと思うので、
口でただそう言っているだけではできないから、
きちんと書いておいてくれと頼んでいます。
実際には、死んだ本人が思っているようにはいかないものです。

本日の一曲No728:おくりびと~Departures
2008年の邦画です。
音楽は久石譲。
いつもの久石節、という感じでしょうか。

この映画では納棺師が「おくりびと」として描かれていますが、
実際には、人が亡くなってから葬儀が終わり、49日の法要が済むまでの間、
たくさんの人がかかわります。
私はその全ての人が亡き人を送る「おくりびと」なのだと思います。
その方に相応しい送り方、空気、いろんなことを、
その人が生きてきた人生にあったやり方、あり方で送る事。
それを作り出すのはそこに携わるすべての人が醸し出すものだと、
そう思ったのです。

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